国際感覚

気がついたら前のカキコミから1ヶ月。
その間にクリスマスもお正月も誕生日も過ぎてしまった。


別にいいのだが…


何かに追われたり、何かの義務でここにものを書いているわけではないので。
(ただちょっと仕事の面も兼ねている部分では申し訳なく思うが)


この連載をアテにしている人がそういるとは思わないので勝手ではあるが
自分の思いが溜まったり、何か言いたいことがあるときに利用させてもらっている。


さて久々に文章を残そうと思ったのは
やっぱり「怒っている」「あきれている」からである。


特に日本の報道のあり方とか、視点というか感覚に。


それはまずタイトルにもあるように「国際感覚」


日本時間の13日中米ハイチで起こった大地震による災害に対する反応。
すでに震災発生から5日が経つが、日本の報道陣(特にTV)はいったい
何をやっているのか?

日本のTV局独自のカメラで取材されたこの震災の報道をほとんど目にしない。
どころかこのような甚大な災害が起こっていることに対して無関心すぎるほどの
対応ではないだろうか。


奇しくも15年前の1月17日ここ日本でも同様の震災がありその追悼企画は
チラホラ企画されたり、報道されたりしているのに今起こっていることに関して
あまりに他人事ではないだろうか。


そしてそれは報道だけではなく、日本政府の対応というものにも現れている。
現地への資金援助だけは早々に決めたものの人的支援は20〜30名程度だけで
その他については何も発表されていない。

http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/disaster/2683182/5174691

いつもこういったことが日本以外の場所で起こったときに思うのが
「現地にいる日本人の安否」
これが確認され被害が無いとなると一気に報道のテンションが下がる。
今回も直接的に日本人の被害は無いようだったので、まるで報道されないのか?


日本人がどうこうしたというのではなく、今何が起こっていてどういう状態なのか
それを知りたいのに、ここまで技術が進み、世界が小さくなったのにもかかわらず
現地からの映像はほとんど海外のTV局からの報道だけなのである。


15年前のことは覚えているくせに。


つぎまた今度東京で同じ事が起こったときにはどうするというのか?
自分たちの国日本はハイチと違い政治も安定し、経済的にも豊かだから
あのような被害にはならないというのだろうか?


常に自然は私たちにその驚異と警笛を鳴らしているというのに。


今や日本とその他の国という考え方は通用せず、世界は一体であり
ともに考えねばならないと

世界環境会議では訴えるくせに

災害の時には遠い国の話しというのか。


世界の環境を考え、人類の生活を守るためのリーダーシップを示そうというのなら
こういうときにも世界の人々のために先頭を切って行動を起こす
そういう姿勢で臨むことができないのなら、CO2削減の声は人々の心に
届かないのではないだろうか。鳩山先生。


そして日本の報道メディアは世界が注目しているこの災害の様子を無視し
あいもかわらず政治のワイドショー化に手を貸すかのごとく
小沢幹事長の元秘書、秘書逮捕をセンセーショナルに伝え
つまらぬことをあおっている。

政治家の謝罪と進退が、芸能人の恋愛、交際、スキャンダルと同レベルで
扱われ、その姿に一喜一憂する人民を創り出している
最低の連中である。


今の日本に本当に必要なことは何か。


それをちゃんと問うまともな感覚の良識ある市民が一人でも多く
残っていることを期待するほか無い。


いったいいつから日本はこんな情けない国になってしまったのか。
自分も同じこの国の人間であることが恨めしい。

来週はクリスマス

クリスマス、みんなどうすごしますか?

40も半ば過ぎの野郎がクリスマスなんてネ。
まっ気分的には20代とそんなに変わらない部分もあるので
機会があればワイワイはしゃぐのも悪くないなとは思うが
そんなことにつきあってくれるような同年代も、今時はいないしね。


家族持ちは子供とすごすのが一番だし。


夫婦二人のうちではそういうこともないのでこれといったイベントも
なく軽くシャンパンを開けてほろ酔い気分だけかな。


タマ蹴り業界はクリスマスイヴ、クリスマスは稼げない特異日なので
おとなしくしているのが一番。


さてさてのんきにこの日記で過去のメールマガジンのつぶやきコラムを
再編しているうちに2009年も終わってしまう。
再編分はまだ今年の2月分がようやく終わったところだというのに。


でも慌てず騒がず、淡々と粛々とやりましょう。


【今週のひとりごと】再録

タマ蹴りドットコム メールニュース2009年2月28日号より

さてコラムシリーズは私たちの過去からの活動をふり返っています。

▲▽歴史シリーズ その4-1998〜▽▲

1997年の後半になるといよいよフットサル施設事業というものが世の中に
認知されてきはじめたのでしょうか。

バブル経済の崩壊から土地神話は地に落ち、都内含めて地価が大幅に下落し
処分しようにも大きな含み損を抱えているので処分もできない。

そんな時にそれらの土地を大きな建物を建てたりせずに有効活用できる。
将来撤去することになっても建造物は少ないのですぐに現状復帰し売却も可能。
そんな観点から少しでも固定資産税の足しになればとか、
投資少なくて結構儲かりそう。
とか言うことで参入を考えるところが増えてきたのがこのころ。

そしてもう一つ大きかったのが、前にも触れましたが
98年のフランスワールドカップへの出場を10月に日本が決めたことも
大きい要因です。

98年のワールドカップに出場を決めたこと、
その次の2002年には日本でのワールドカップ開催もすでに決まっていました。
ということは開催国で自動的に2大会は連続で出場ができるわけです。

するとこのサッカー景気は少なくとも2002年までは続くという見方も
できるわけで、若者に受けるフットサルは、サッカー人気と相まって増加するに
違いない。
そういったこともあり、新しいフットサル場のオープンがこのあと続いていきます。

98年の7月には大磯プリンスホテルのテニスコートを一部フットサルコートに
変更して4面の会場が生まれました。
ここでのオープニング企画を弊社で受注し、その後に続く定期的なイベント開催
の提案も行い、新たな会場が増えました。

そして秋になった10月にはミズノフットサルプラザ藤沢が開業。
ミズノの2店舗目です。
こちらもオープニングのカップ戦からはじまり平日のリーグ戦、週末のカップ
と定期開催をしていくようになります。

この時点で、都内2会場、神奈川3会場がレギュラー開催会場。
定期ではないですが、私の地元川崎のとどろきアリーナでのインドアイベントも
スタートしています。

そして夏には前年96年から開催が始まった恒例企画「湘南ビーチサッカー」が
3年目の開催を無事に終えています。

個人的にはフランスまでワールドカップを観に行きたいのも山々でしたが…
(というのはかつてドーハで仲間になった友人達が現地で珍道中を繰り広げているのはわかっていましたし、なにせ土地勘のあるフランスですから)

それをせずじっとガマンでいろいろみなさんのお役に立とうとやっていたら
なんとかフットサルのソフトウェアを専業で行うという形で、
メシが食えそうな、そんな状況になってきました。

95年末にはじめておそるおそる開催したリバーサイド学生フットサル大会も
98年末にははや第10回となり、2クラスで2日間の開催、72チームの参加を数える
ほどになっていました。

タマ蹴りイベント専業の会社としての形がようやく見えてきたというところ
でしょうか。あっという間の4年です。

毎年3月になると、私たちのところで永らく頑張ってくれたバイトのレフリー君達が何名か卒業し社会へ出て行きます。
自分はずっと同じことをやっていますが確実に日々が過ぎていることを実感する季節です。

4月以降の新しい仲間との出会いもまた楽しみです。

2009年12月1日

いよいよ今年もこの1ヶ月で終わってしまう。

なんとか将来への目処が見えてきたここ最近、今年中に終わらせておくことが
あといくつか!!

これらをなんとか今月中にクリアし来年がいよいよ本番の
新しいトライアルに向けて準備を整えよう。


【今週のひとりごと】再録

タマ蹴りドットコム メールニュース2009年2月20日号より


▲▽歴史シリーズ その3▽▲

1997年の話からさらにワープして1993年まで遡り
「タマ蹴り」誕生のキッカケについて前号でお話ししました。

話を1997年以降に戻しましょう。

96年に「アービル横浜」のコートがオープンしその翌年の
97年には私たちが次ぎにイベントを開催した「大江戸ふっとさる倶楽部」が
東京小岩にオープンしました。


こちらは企業ではなくその土地のオーナーさんがそれまでのゴルフ練習場(打ちっ放し)から業態を変更してフットサル場をはじめるというものでした。


サッカーの経験もフットサルが何かもご存じなく、はてコートをオープンさせるはいいけどどうやって人を集めましょう??


そんなところから、こちらの施設の人工芝を担当したメーカーさんからのご紹介で
私たちが出動することとなりました。


当時世田谷にあった私たちの事務所からはちょうど東京の反対側。
そもそも川一つ隔てた川崎育ちの私としてはほとんど地理的にはチンプンの場所。
まぁ、あちらも川一つで向こう岸はすぐに千葉県ということで似たような状況でありますが。


しかしその周辺環境、人々の気質は大きく異なります。


そんな中まずは週末の1Day企画から提案し毎月イベントを開催することからはじめました。
都内特に23区内にはまだまだ施設がありませんでしたから、告知が行き届いていくとともに参加チームは順調に集まるようになっていきました。


場所的には小岩駅からも新小岩駅からも歩いて15〜20分はかかり、車で行くにも駐車場は非常に台数が限られており、なかなか今では考えられないほど条件は良くありませんでした。


クラブハウスのシャワーも男女別にはありませんでしたし、開業当初はトイレも工事現場の仮設トイレ。


その後、どんどんお客様が増えて行くにつれトイレは外に個別が設置され、シャワールームや倉庫も増設されていきました。さらに駐車場も隣接の空き地を借りて拡大されるなどして小さいながらも過不足無いコートになっていきました。


オーナーも最初はいつもひとりで店番をしていましたが、外部業者とうまく話をつけ彼らに任せてカウンターに立つこともなくなっていきました。


のちに施設名称も「フットサル・オーエド」→「フットサル・KOIWA」と変わっていきました。
我々は、1Day以外にもリーグ戦、現在の1×4に繋がるようなお手軽企画。
最大時は2日間で48チームを集めるような学生大会。
そして今も残る「ジュエンカップ」は実はこの会場から始まりました。


その後私たちの企画は2004年までこの会場で行われました。
企画終了後は、訪れる機会もなく疎遠になっておりましたが、昨年夏すぎにHPを
久しぶりに覗いたら2008年10月で施設を閉じるとのアナウンスがありました。


11年とちょっとでその歴史に幕を下ろしました。
どういった理由で閉じることとなったのかはわかりませんが、地域に根ざして
それなりにみなさんにタマ蹴りの場を提供していただけに残念です。


私たちの東京城東地区での企画はその後オープンしたミズノフットサルプラザ千住、千住大橋に引き継がれています。


このあと97年後半からは施設がどんどん増えてラッシュが始まります!!
そのあたりはまた次号以下でお話しします。

【追記】
先日この近くまで行く機会があったので久しぶりにこの「フットサル・オーエド」を訪れてみました。
きっと跡地はマンションか何かになっているのだろうと思って…

そして到着してみると、そこには開業していた頃のままの施設が誰にも使用されずに寂しくそのまま残っていました。

外のフェンスには「貸し地」の看板が掛かっていましたが…
結局閉鎖から一年以上経つ今でも打ち寂れた状態で放置されていました。

なんともったいないことか??

オーナーさんにもいろいろ事情があって閉鎖に至ったのでしょうが
何か方法はなかったのでしょうか??

自分たちが開業以来みてきた施設がこのようなことになるのはなかなか
辛いものです。

冷たい雨

先週、今週とウィークデイは冷たい雨が続いている。

週末に雨が降るよりはいいが、やはり雨は仕事するのにも気が萎える。
(たいした仕事をしているわけではないが…)


それ以前に本人のやる気がないほうが問題か??(笑)


この先冬はもう店じまいしてしまって冬眠だな……


【今週のひとりごと】再録
タマ蹴りドットコム メールニュース2月12日号より


▲▽前号に続いて歴史を遡り1997年は??▽▲

ついこの間のようですが、干支でいうと今の丑年の一回り前です!!(驚)

ハイ!今年12才の子が生まれたトシ!今年24才になる人が小学6年生だったトシ!
今年からはもうMastersクラスにエントリーを考えている人がまだバリバリの24才だったトシ!
です!!

きしくも12年前は、先日のワールドカップ最終予選オーストラリア戦のように
日本代表がフランスワールドカップ出場を目指してアジア最終予選を戦っていた
そんなトシです。

そうですね、だんだん記憶が蘇ってきましたでしょうか?

日本サッカーがどんどん盛り上がっていく上昇期です。
このころには2002年のワールドカップ日本開催も決定しており、
1998年のフランス大会に予選を突破して出場することが日本の最大の使命でした。

前回に続いてちょっとタマ蹴りのネタから脱線しますがお付き合いいただければと思います。

W杯予選といえば私はその前の94年アメリカ大会へのアジア予選を忘れることはできません。
そうです93年10月の「ドーハの悲劇」あれです!

私はあのアジア最終予選カタール=ドーハでのセントラル方式による日本の戦いすべてを現地にて目撃をしたひとりです。


前年の92年アジアカップ広島大会を制したオフトジャパンを見たとき、
「あぁ、このチームは私たちの悲願であるワールドカップに連れて行ってくれる!!」
そう感じたのです。そして93年日本サッカーがワールドカップへの出場を決める
その瞬間に立ち会わなくては、この目で見なくては!と思い、JTBの応援ツアー
3週間のアジア最終予選全戦観戦カタールの旅に申し込んでいました。

当時私はサッカーとはなんの関わりもない、砂まみれのラリーに参戦するという
仕事をしておりました。

年末からその本番があり10月は決してヒマというわけではないですが、
すべてを調整しそれらより、この瞬間に立ち会うことを優先させました。

成田からの旅立ちの日、その日そこではじめて顔を合わせるツアーメンバー
様々な経歴を持つ猛者たちです。Jリーグ開幕以前の黎明期の日本サッカーを
各地で支えてきた面々です。

現地ホテルで同部屋になったのは当時大学生のHクン。
初対面ながら目的は同じなのですぐにうち解け、サッカーの話で終始盛り上がる。

滞在したのはドーハのシェラトンホテル。なんとそこは最終予選に参加する
すべてのチームの滞在する公式宿舎というとんでもないところ。
ロビーやエレベーターで普通にオフト監督やラモス、都並、ゴン中山、カズなどと
いっしょになるのである。朝食のレストランでもふと横を見ると彼らがいるのだ。


JTBでの事前説明会でそのことはすでに知らされていて、ロビーやエレベーターで粗相のないように十分注意を受けていたが、実際にはさほど緊張することもなくフツーに挨拶したりしてお互い大人な感じで生活をともにした。


ただ試合の前日や当日となると、試合ごとの選手の緊張感やピリピリしたヒリヒリする感じがありありとうかがわれ我々もその空気に刺激され「いざ決戦!!」というテンションになっていった。
またオフタイムにはプールでともにとりとめのない話しをしたりしてリラックスした時間をもともに過ごしたのである。


試合の結果は歴史が示すとおりなので今さらふり返りはしないが、
ここでの体験が実はこのおよそ1年半後に今に繋がる「タマ蹴り」の創設の
キッカケを私に与えてくれたのである。


サッカーが好き!!というのはこういうこと。
サッカーは世界の共通語とはこういうこと。というのを身をもって体験した。


今のようにサポーターとか、そんな集団応援なんてまだ駆け出しで、
そんなまとまりというより、本当にサッカーが好きな連中が集まってきた!!
そういう中で起きたいろいろなことが、私の中で醸成されて95年に
株式会社エフパッションを興すエネルギーとなったのだった。


高校卒業でサッカーのリアルな部分から離れていた自分の中に
サッカーのすばらしさが蘇ってき、そしてサッカーへ何か恩返しがしたい。
そう思ってこの会社を立ち上げ14年が過ぎようとしている。


15年目を前にしてもう一度「フットサル」ではなくて「サッカー」を
見直してみようと気がついた。


そう原点は「サッカー」なのである。


原点回帰についてはこのあとまた触れていくので気が向いたら
読んでやってください。

11月まだ更新一度もしてなかった…

気がつけば11月に入って一度も日記更新しておらず…
前回から1週間くらいかと思いきやすでに3週間も経っていたのかと思うとゾッとする。


前回の宇都宮に続いて月初の週末には何年かぶりに車山高原へ早朝から出かけた。
毎年秋のこの時期に行われているフランス車のお祭り
「フレンチ・ブルー・ミーティング」
へ行ってきた。


一応自分もフランス車オーナーの端くれなのでなんだかんだとこれまで3回ほど参加。

何があるってワケでもないが、これほど多くのフランス車が集まることはまずないので、珍しい車にお目にかかることができるし、フレンチテイストのグッズやなんちゃってコレクションのミシュラングッズなどが手にはいるのでなかなか楽しい。


たいへんなのは日帰りするときの朝の早さと、帰りの渋滞。


でも今年は朝早いのは前週の宇都宮で慣らし済み??
そして帰りは今回は早々に切り上げ現地をお昼には出発したため渋滞は皆無。

快適に夕方まだ陽のあるうちには家に帰り着いた。


お目当てのものもいくつかゲットしなかなか有意義。
そして今回初めて高速1000円の恩恵にも預かれた。


もう来年はいろんな事情で行けないかも知れないので…
いいドライブだった。


さて恒例の【今週のひとりごと】再録
今回はメールニュース2月6日号より


▲▽タマ蹴りの別バージョン「アービル横浜」▽▲

1Dayでの完結型カップ戦がなんとか1996年12月に成功しスタートを切りました。
様々な紆余曲折が有りながら、何となく私たちの方向性がはっきりしてきた頃でした。

1996年はこのMFP二子玉川に次いでこちらも今は無き「アービル横浜」に
1面のフットサルコートがオープンしています。

こちらでは今はどこのコートでもおなじみのクーバーコーチングスクールの
最初の教室が始まったところでもあります。

バブル期の名残とも言うような超高級会員制スポーツクラブのテニスコート
人工芝にしてフットサルと兼用にしたものでした。

場所的には東戸塚駅からバスでないと行けないというところで決して条件の
いい場所ではありませんでした。
それでもまだ当時はフットサルコートがほとんど無い時期で横浜市内には他に
フットサルクラブ横浜=センター北がオープンしたばかりのそんな状況でした。

ですので車やバスでみなさんわざわざお越しになっていました。

1面しかありませんからそんな大々的なことはできません。
チームの試合待ち時間、回転を考えるとせいぜい多くても6チーム。

そういう条件でもどんな企画が当てはまるのか頭を柔らかくしていろいろ考えたものです。

まだまだ我々が行う現場の数は少なく、時間だけはたっぷりありましたから
あれやこれやいろんなパターンを考えそしてそれをトライする実験的な
フィールドでもありました。

それにこのアービル横浜ではのちにお手伝いすることになる夏のプールイベントも
あったので思い出深い場所でもあります。

ここの夏季のプールはそれは贅沢なものでホテルのプール並みの環境があり
その料金もホテル並みという貧乏サッカープレーヤーには高嶺の花の場所。
でも知る人ぞ知るで穴場中の穴場みたいなものでした。
イベント後に何度かそのプールにお世話になったものです。
最高に気持ちのいい夕暮れ時をそこで過ごしました。

ここでは確か97年の夏にはプールで毎年行われるマーメイドクイーンコンテスト
というミスコンの運営お手伝いもやりました。
事務局で応募者の書類選考なんかもやったり本番の水着コンテストの水着を用意したりしていつもの汗くさいイベントの現場とは違う華やかな現場を体験しました。

その後というか経営破綻する直前ですが、3年間ほどは夏にやはりこのプールサイドで行われるビーチバレー大会の運営事務局から本番までを行いました。

こちらもいつもサッカー系だけの所へビーチバレーという毛色の変わったものを
運営する機会を得ることができ我々にはいい経験となりました。

今はもう経営破綻し施設そのものも閉鎖されており寂しい限りです。
ああいう場所は貴重だっただけにあの時期あそこでプレーできた人たちは
とても得をしたと思います。

今日はちょっと脇に話がそれましたが、思いつきのネタでスミマセン。
ではまた次回!!

※捕捉
当時このフットサルアービルでフットサル事業の責任者を務めていたのが
macom http://www.macom.jp/
を主催されている森川さんです。

現在
【タマ蹴りドットコム】http://www.tamakeri.com/
で募集受付を行っているコロナフットボールクラブ相模原での企画運営を
お願いしているものは、このmacomの企画です。
お近くの方はぜひ一度参加してみてください。

ジャパンカップ

といっても競馬ではありません。

自転車ロードレースの話しです。
昨年初めて宇都宮まで観戦しに行って、今年もまた先日行ってきました。

自転車ロードレースを観戦しに行くなんてよほどの自転車好き、ヲタクかと思うでしょうが、そんなことはありません。


道具からはじめるタイプの自分は確かにそういうものも持ってはいますが
毎日走り込んだり、磨いたり
なんて言うのはまた夢の夢、ヘタレ君なのでイメージだけです。

でもこれはまた生で観戦するとおもしろいモノです。
それに現地まで行く交通費などはかかりますが、観戦そのものは一切無料ですから
とてもリーズナブルにまるまる楽しめます。

ぜひ機会があればみなさんも一度観戦してみてください。

それに何てったって開催地の宇都宮はギョーザのメッカ!!
まずうまいギョーザを腹一杯堪能できますし、お勧めです。



【今週のひとりごと】メールニュース1月30日号より
▲▽1Dayのカップ戦の開催-その3▽▲

1Dayでの完結型カップ戦。
1Day大会の参加費は\25,000-/チームという形に落ち着きました。

この当時ワンデイのカップ戦といってもまだ週末土日はミズノフットサルプラザ二子玉川はイベント用には解放していませんでした。
まずはレンタルユーザーへの提供が最優先。

それに週末では定価でのコート利用料を負担しなくてはなりませんでした。

そこで最初のカップ戦はまだ祝日の開催でした。
どのくらいのチームが集まるのか?
手探りの中での開催ですのでリスクはなるだけ避ける。でもそれなりに利益も上げなくてはならない。生活がかかっていますから。

この金額が現在に続くありとあらゆる民間主催のフットサル大会のベース価格となったと言っていいと思います。

その後に大会を開催するところはすべてこの価格を基準に自分たちの価格を設定したはずですから。

なにせどこにもそういう計算をして設定されたモノは当時存在しなかったのですから。

この価格が高いとか、安いとか(安いという人はフットサルやっている人にはほとんどいないと思いますが…)いう論議はいろいろあることでしょうが、
普通にコートを土日祝日にレンタルして1時間使うと¥12000-はかかっていた
(コート代は14年前からほとんど変わってないのです)のに、その2時間分で
すべてがお膳立てされた大会に参加でき、いろんなチームと対戦することができ、
あわよくば入賞して参加費以上の副賞まで持って帰ることができる。

そりゃあ、それまで河原でドロドロになってただボールを蹴っていたサッカー野郎達からすれば「ちょろいもんさ!」「すぐに賞品ぐらいもらって元とれるぜ!!」
そんな感じで一稼ぎなんて考えながらひょっこり「大会出てみよーぜ!!」
という具合に仲間を集めたに違いありません。

さてこの1Dayカップ戦 そうして開催されたのは1996年12月23日(月/祝)でした。
企画段階の年間スケジュールでは「クリスマスチャレンジカップ」の名称だったのですが実施されたときは「GALLERY SPORTS CUP リバーサイドチャレンジ」でした。

そうです栄えある第1回目の1Dayカップから今ではみなさんにフットサル用品といえば「GALLERY・2」の名前で聞き覚えがあるでしょう、新宿アドホックのあのショップの冠で行われたのです。

当然のようにATHLETAも全面協力で、初っぱなからえらく豪華なイベントとなりました。
なにせ参加賞として全員に「ATHLETAオリジナルウォッチ」が配られたぐらいですから!!

当社の初の学生大会から1年が経とうとしていました。
1年間生き延びたというのがその時の素直な感想だったと思います。

現在に繋がってくる流れが何となくできてくるそんな頃だったでしょうか。


この記憶をたどるコラム、なかなか大変ですがもう一度原点を思い出す意味でも
いい機会になっています。次は何のネタにしょうか??

再開…ボチボチ

およそ5ヶ月前の記事から経ってしまいました。

永らく放置して申し訳ないです。

どうも義務的にやろうとするとダメなようです。
気ままな感じでないとすすみません。

仕事の延長では難しいですね…

まずはメールニュースの連載コラムの再掲載から徐々にやっていこうと思います。
こちらもたどってみれば09年1月16日発行分のコラム掲載が最後になってしまっていますので、こちらであれば溜まったものをアップしていけばそれだけでかなりしのげます(笑)

当面焼き直しですがこちらでご勘弁を m(_ _)m


【今週のひとりごと】メールニュース1月22日号より

※以前の記事1月16日号はこちら
http://d.hatena.ne.jp/Futsallovers/20090507/1241696673

▲▽1Dayのカップ戦の開催-その2▽▲

1Dayでの完結型カップ戦。
大きな懸念事項というコメントで前回のコラム終えましたが、それはというと
やはりいくらの上がり(利益)が我々に必要なのか??

前回も書いたように、イベント開催にはそれなりに経費がかかります。
それに我々は基本フットサルに関するサービスだけでメシを喰っていますから
スタッフの給料もそこから支払わなくてはなりません(当然私も含めて)。

どのくらいの原価率、利益率が適正ラインか??

ただいろいろ計算した結果すでに他社で行われている¥35,000-までは必要ないだろうと。
ましてやサッカーを通常週末楽しむ層というのは当時はそんなに多くないはず。
そしてサッカーというのは合宿大会を除けばほぼ公式のリーグ戦や草サッカーしか無い状態。
それらはほとんどグラウンド代しか掛からないという超リーズナブルなもの。
学生時代からサッカーやっている者なんて、サッカーするのにそもそもお金かかる??
なんてほとんど思っていない状態でした。

そこへ持ってきていくら人工芝で作られたコートで雨でもプレーできる。
クラブハウスにシャワーまで完備。

河川敷の草サッカーや学校グラウンドの土でドロドロになったプレー環境を
体験してきたものにとって天国のような施設だったとしても、
それにいくらのお金をためらわずに支払えるものなのか??

どこまでの料金なら週末快適な環境でボールを蹴ることができること、
対戦相手も自分で探さずにトーナメント表、リーグ表もできていること、
そしてレフリー手配も心配せずにとにかく5人以上のメンバーを集めて
ウェアとシューズとボール持って電車で出かけても車で出かけても
まぁ、そこそこの時間で着くし。というものにそれぞれがお財布からいくら
の出費までは容認してくれるのだろうか?

多くの体育会系出身者は今でもまだそういう風潮は残っていますが、
スポーツするのにお金かかる(用具、用品という個人的な道具類は別として)とは
まず思っていないのです。

ですからいかにお金がかからずにプレーできるか!!
あわよくばただでプレーすることができないか!!
と考えているものなのです。

そういう大多数の人たちからお金をいただいて、そのプレー環境を提供すると言うこと。
イベントを実施するというのはそういうことなのです。

ですからまずは主催する私たち自身の意識改革からがそもそも必要なのでした。

多くの場合最初は参加するみなさんからお金をいただくことに罪悪感が伴うのです。
同じスポーツをやっていた者として。

しかし我々は多くの人たちが面倒でできないことを代わって行い、
プレー環境を創造し、提供するというサービスを行おうとしていたのです。

サッカー関連のサービスとしては、宿泊を伴わないプレー環境提供サービス事業者はおそらく我々が最初だったでしょう。

そのサービスの対価を参加費という形でいただくということを理解するには
相当な時間と、誰もそれを専業としてやっていないというプレッシャー、
前例のないものを作っていく難しさの中で一つ一つ問題をクリアしていきながら
徐々に形作られていきました。

話がわき道にそれてしまいましたが、肝心の1Day大会の参加費は
まずは\25,000-/チームという形に落ち着きました。

さぁ、誰もやっていない事への挑戦が始まりました。